南海020621
●「魂の帰る場所」●
南海日日新聞2003年6月21日
●島唄との出会い
1997年夏、東京のFM放送局J-waveで「奄美大島のおばあさんの唄です」と紹介された朝崎郁恵+高橋全の“おぼくり〜ええうみ”。
その曲が始まったとたん、私は凍り付いた。突然涙があふれ出し、腑の底から「島に帰りたいっ!」という叫びが飛び出した。その叫びは、私自身を驚かせた。「私はどこでそんなことを考えていたのか?」
その3年ほど前、徳之島や奄美大島を訪れていた私は、曲の紹介を聞いて「あぁ、奄美大島。懐かしい」とは思った。でもそれは、かつて訪れたことのある地への郷愁でしかなかったはずだった。
たしかに、当時、「島で暮らせたら」と思わないではなかった。でも、都会暮らしをしているうちに私は都会に慣れ、島のことを忘れていった。ときどき思い出すことがあっても、それは遠い別世界の日々のようだった。
東京生まれ、両親も親類にも島に縁のある人はいない。それなのに、「帰りたい」というのはどういうことなのか。
笠利町喜瀬のノロ墓
●時、満ちて
朝崎さんの唄に出会ってから5年経った昨年4月、ついに私は奄美大島に帰ることができた。それは、私のなかでまさに「機が熟した」ときだったといえる。
島への風は、ときどき吹いてきた。インターネットを通して知った「奄美のくだもの専門店@やっちゃば」のメールマガジンにコラムを書かせてもらうようになり、その後、朝崎さんのCD「詩島」(アマンミュージック)制作や朝崎さんのミュージックCDをつけた濱田康作さんの写真集「うたばうたゆん」(毎日新聞社)制作に関わる機会が与えられた。
そうして島の人たちの暮らしやカミとの関わりを知りたい、と思うようになったときが、私が島へ帰るときだった。
それより前に島に来たのでは、私は何を見ただろう。通り一遍の観光しかできなかったはずだ。島に帰れるように準備が整ったとき、それが昨年の4月だった。
●シマに招かれる
そのとき最初に訪れた、いまは通う人も滅多にいないノロの墓は、大きなガジュマルに守られていた。そのガジュマルに出会ったとき、「おかえり」という声が聞こえた。
それは「島に帰りたいっ!」という叫びに対する答えだったのだろうか。
観光地ではないシマジマを巡り、「東京からこんな所に、何で?」と不思議そうな顔をするオジ、オバと話をし、浜で波の音を聞き、森で木々のざわめきを聞く。
行く先を決めない一日。車を走らせているうちに、行ってみたい所が決まる。すると、目には見えないカーテンをくぐったようにふっと空気の変わる場所がある。
そんな場所でじっとしていると、現実の時間とは違うときの流れに身を置いているような感覚になってくる。そして、自分の中に声が響いてくる。それは、その時々に私が悩んでいることの解答だ。
そうした体験を繰り返すうちに、私のなかで「シマに招かれている」という感覚が確信に変わっていく。
その場の持つエネルギー、あるいはその場の魂の波動と、私の魂が響きあう所に私は引き寄せられ、自分の裡なる声を聞くのである。
●魂の息づく場所
昨年4月からこの5月までの1年あまりの間に、東京近郊の町と奄美大島を行き来した回数は5回。いずれも10日前後の滞在だ。
シマを離れている間にも、私のなかではシマの空気が息づいている。けれど、そのシマのエネルギーが足りなくなってくると、シマに帰れるようにすべてがうまく運ぶ。無理に帰ろうとしても、なぜか帰れない。けれど帰れたときには「あぁ、このタイミングでここに帰れて良かった」と思うことばかりである。
私はそこに、人の力を越えたものを感じずにはいられない。
シマのカミに許されて訪れる場所で、私は自分の魂と向き合う。それこそが、私が自分の原点に立ち返ることであり、また、自分の進むべき道を見いだし、確認することでもある。
自分の進むべき道がわかったとき、ふと肩の力が抜け、楽になる。これこそがほんとうの「癒し」ではないだろうか。
世は「癒し」ブームで、安易に手にできる「癒し系グッズ」があふれている。しかし、ほんとうの「癒し」は、自分の魂と向き合うことでしか獲得することはできない。
私にとって「シマに帰る」ということは、自分の原点=魂に帰ることにほかならない。それは、自分の根っこを見定め、しっかりと立って歩いていくということでもある。 シマを離れている間も、シマでの日々を懐かしむだけでなく、その豊かなときを再び得るために、いま、目の前でできることを精一杯やることが、将来につながる。
私はシマで何を探しているのだろう。名前も肩書きも取り外して、素のままの自分自身でいられる場所を探しているのかもしれない。そしてその場に巡り会えたとき、私の魂は息づきはじめる。
私にとって加計呂麻島を含む奄美大島は、間違いなく「帰る場所」だ。
いま、というこの時を生き、自分の「帰る場所」に出会えたことに、ひたすら感謝している。