有機栽培コーヒー豆を丁寧にハンドピック&自家焙煎し奄美をイメージしたオリジナルブレンドや、お好みに合わせたブレンド作りをしています。

南海040708

●「ふるさと」奄美●
南海日日新聞2004年7月8日

●「いなか」がない喪失感
 小学校の頃、夏休みになると、友だちの多くは「いなか」へ行った。
 満州帰りの父に、「いなか」と呼べる土地はなかった。2歳で、家族全員と新潟から東京に出てきた母も、生まれた土地に親しい親戚はいなかった。東京生まれ、東京育ち。住んでいた場所は、私が生まれる前に開発された住宅地。そんな私に、「いなか」のある友だちは、うらやましかった。
 はじめは、他の人にあるものが私にない、ということが淋しくもあり、口惜しくもあった。「なぜ、私にはいなかがないのか」と何度も母に問うた覚えがある。そんなとき、母は決まって「いなかがないのは、我が家だけではない」と言ったが、「ではなぜ、いなかのある人とない人がいるのか」との問いは、いつも濁されていたようにしか覚えていない。説明されても、幼い私には理解できなかったのかもしれない。
 けれど、ある日、私にとっての「いなか」は、おとなになってから私がどんなに努力しても得られないものだ、ということに気づいたとき、幼いながらに愕然としたのを覚えている。それは「喪失感」と言えるものだったかもしれない。
 もともとないのだから、「喪失」ではないのだけれど、なにか、とても大事なものが自分に欠落している、と感じたことは、今も鮮明に覚えている。
 ある年の夏休み、母は兄と私を、自分の生まれた町に連れて行ってくれた。母方の墓所を管理してくれていたお寺に泊まらせてもらったような記憶があるが、その土地は私が想像していた「いなか」ではなかった。私たちは「よその人」としてもてなされたのだった。
 いま考えてみれば、ほとんど交流のなかったお寺に泊めていただけただけでもありがたいのだが、その頃の私にとって、友だちの話から夢に描いていた「いなか」は、他人行儀不要、ふだん都会ではできないような遊びや子どものわがままも許してもらえるような場所だったように思う。

龍郷湾

●根を下ろす場を持たない浮遊感
 「いなか」ということばは、いつか「ふるさと」に変わっていったが、生まれ育った東京都内の町に「ふるさと」の実感はなかった。それは、もしかしたら母がそこへ引っ越した当時の暮らしにくさを何度も聞かされていたことも影響しているかもしれない。あるいは、近所に同じ年頃の子どもがいずに、いつもひとり、家の中と庭だけで過ごしていたせいかもしれない。その土地への愛着は、いまもって非常に薄い。
 子どもが生まれてから、夜泣きする子をあやしながら、なぜか「ふるさと」の歌をよく歌った。歌いながら、泣いていた。初めての子育てに対する不安、眠れない辛さ、そして、そのときも「自分にふるさとがない」ことが、とても寂しかった。
 なぜ、私は「ふるさと」を求めるのだろう。
 「ふるさとがない」ことを思うとき、いつも自分がふわっと浮いているような感覚に陥った。私にとって、「ふるさとがない」ことは、自分の根を下ろす場が見つからない、という不安につながっていたのだった。地に足がついていない、という言葉通り、足を降ろす地がない、という悲しさだった。

●「ふるさと」への思い
 子どもの頃、無い物ねだりのように欲した「いなか」に求めたのは、温かさと包容力だった。それは、自分がぬくぬくと過ごすことができる、自分にとって都合の良い場所だった。
 しかし、「ふるさと」は、決してユートピアではない。
 懐かしく、切なくもある風景。親しい人たちのさまざまな表情や何気ない仕草。特徴のある言葉遣い。そうした愛しさだけで、「ふるさと」は語れない。そこには現実の問題があり、その解決方法にじれったさや煩わしさを感じることもある。「ふるさと」を離れているからこそ見えてくるものもあるし、「ふるさと」へ帰りたくても帰れない壁もある。「ふるさと」で暮らす人たちの悩みも見えながら、それに対して何もできない自分の無力さを痛感することもある。それでも、自分と切り離すことができない場。
 「ふるさと」は、決して逃げ帰る場所ではない。もし、単に「逃げ帰る場所」であったら、そこから先は逃げる場所のない追いつめられた場所になってしまうのではないだろうか。
 「ふるさと」は、自分の足下、根を下ろせる場所だ。岩にへばりつくように生えだした若芽のように、自分の原点に戻り、伸びていく先を見上げられる力を得られる場所ではないだろうか。

●「ふるさと」の力
 私が初めて奄美群島を訪れたのは、十年ほど前。徳之島の果樹農家でホームステイをさせてもらった。そこで草刈りをし、収穫や加工品製造の手伝いをしながら学んだのは、「島で暮らす」という視点だった。その頃、初めてフェリーで名瀬に入ったとき、街の大きさに驚いた。その後、ふたたび夏に観光で奄美大島を訪れたとき、楽しくはあったがどこかで「何かが違う」と感じた。
 それは、「ふるさとがない」と感じたときの浮遊感に似ていた。島の風景、海の中、それぞれに美しくはあったが、目に映るものは、どれもよそ行きの顔のようで、私は「訪問者」でしかないことを感じさせられた。
 それからしばらくの時を経て、私は奄美大島に通うようになった。毎回泊まらせてもらう友人の家には、私の娘と同い年の女の子がいる。子育ての話を共有したり、泥染めの仕事場を見せてもらったり、農業に携わる人たちの話を聞いたり、夕方の木陰での語らいに混ぜてもらったり、観光では見聞きできなかった島のさまざまな側面に触れながら、島のあちこちを巡っている。
 そうしていろいろな人と出会い、人の入らない森に連れて行ってもらったり、海に浮かぶ小舟から島をただ眺めたりしながら、この海と森に囲まれ、一筋縄では解き明かされない歴史をもち、豊かな文化を育んできた島で暮らすということを自分なりに積み重ねていくうちに、観光で訪れたときの浮遊感はなくなっていった。むしろ、ここへ来れば体の深奥から呼吸ができ、都会で凝り固まった細胞のひとつひとつに新鮮な空気を送り込むことができる。その空気は、島のさまざまな側面、島の人たちの息遣いが織りなしているものである。
 島が好き、とか、嫌い、とかいうことではない。欠くことのできない私の一部、というのだろうか。島に来るたび、私は自分の足が根を下ろす場所を確かめ、そこで自分が何をできるのかという永遠の宿題を見つめ直し、同時に自分に島での「生活」がないことを少し寂しく思う。
 迷ったとき、頭がいっぱいでどう進んだらよいのか分からなくなったとき、私は必ず思い出す。海辺の砂を裸足で歩いている自分。足を包み込んでいく砂の柔らかさ。ぬるい水。潮の色。風。森の中の絡み合う木々の枝。そして、さまざまな問題を抱えながらも、その日にできることだけを精一杯にする人たち。それはユートピアではない「ふるさと」の、私が知っている限りの紛れもない現実だ。その現実を実感として思い出すとき、私は自分の足下を確認し、「ふるさと」に出会えたことに限りない感謝を感じながら、また顔を上げて歩き出すのである。


powered by Quick Homepage Maker 4.04
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional